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ドキドキわくわくHAPPY  YOGA日記

ドキドキわくわくHAPPY YOGA日記

スヴァミー・シヴァーナンダ

<スヴァーミー・シヴァーナンダ>
現代インドのヨーガ聖者。

1911年に医師となり、二年後にマレーシアのゴム園の医師として赴任する。
当時のゴムのプランテーションで働く人びとの仕事は過酷をきわめ貧しい人が多く、病気や悩みが蔓延していた。

クッブスワミ(イニシエーションを受ける前までの名前)は、人びとの生活を見聞きし、診療するうちに

「悩みや苦しみはどこからくるのか、どうすれば永遠に変わらない幸せをえられるのか」と日夜考えるようになっていった。

病院内に祈りの会を設けたり、人びとと共にキールタンを歌った。

『バガヴァッド・ギーター』が彼の座右の書であったという。

1923年、12年間のマレーシアでの医療活動と何不自由ない生活を捨て、インドへ帰る決心をする。

自分の使命は人びとを救うこと、それも、肉体的な病気だけでは調和に欠ける。
もっと精神的な救済をしたいと考えたからだった。

しかし、人びとを救うまえに、まず自分が本当に神を悟らねばならないと知ったクッブスワミは、インドでの修行を選んだ。 

荷物を生家に送っただけて肉親にも会わず、自分は修行の場と真のグルを求めてさすらいの貧しい旅を続けた。

放浪の未、翌年ヒマラヤの麓、ガンガー(ガンジス河)沿いの寒村、リシケシに辿り着く。
そこでインスピレーションをえて留まることを決意する。

リシケシのガンガーで沐浴と瞑想を繰り返す日々のなかで、自分のグル、スヴァーミー・ヴィシュヴァーナンダ・サラスヴァティーにめぐり合う。

このグルから、イニシエーションを受け、スヴァミー・シヴァーナンダの僧名を授かる。

しかし、さらにガンガーより奥に入った森のほこらで瞑想し、チャパティ1枚、ダル豆のスープ1杯の施しをうけて修行を続けた。

修行中でも急病人は快く診療したが、完全な静寂と自己放棄への道、神への道を確実に歩んでいた。

ついに、1930年にサマーディ(悟り)に達し、神を知り神と一体化した。

それ以降は人びとのなかに常に神をみていた。

南インドへの布教の旅をして戻ったシヴァーナンダのもとへ、インド中から若い求道者が詰めかけてきた。

居候していたアーシュラムに迷惑がかかるのを心配して、スヴァミー・シヴァーナンダは、ガンガーの対岸に庵を移すことになる。

その時も「計画して行うのてはなく、すべてを神に任せている|と述べている。
当初自分はアーシュラム(僧院)を開く意志はないと弟子をことわるが、若い求道者たちの熱意を受け入れて、小さなシヴァーナンダ・アシュラムが誕生した。

さらに、1939年には「ディヴァイン・ライフ・ソサエティ」が設立され、その精神活動の拠点となる。
シヴァ寺院やバジャンホールなどが寄贈され、寺院として人びとへの奉仕活動が開始された。

1948年には、ヨーガ・ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミー大学もアシュラム内に設立された。
1953年には、ここで「世界宗教者会議」を主催し、
その時スヴァミー・シヴァーナンダは、

「真実は一つ、すべての宗教の教えも一つ。狭い心が不必要な争いを起こし、不幸をもたらしている」と全世界に向かって演説した。

シヴァーナンダの口癖は「レギュラリティ(規則正しさ)」であった。

どんなに忙しくても、一日の内、30分の執筆時間は生涯を通して守った人である。

毎日、少しずつの積み重ねを実行し、弟子にも自らの生き方そのもので教えを伝えた。

グルの中のグルという意味で「グルデブ・シヴァーナンダ」として、今も慕われ親しまれ続けている。

1963年7月14日、グルデブ・シヴァーナンダは、住まいのクティエで最後にガンガーの水を所望して一口飲んだあと、静かに涅槃に入った。

今も総長のスヴァミ・チダナンダをはじめ、その教えを守り伝える弟子のスワミたちの活躍で、その教えは、世界各国に波紋のように広がり続けている。

なお、シバナンダの詳しい伝記は、『ヨーガとからだの科学』(東宣出版)の後半を参照すると良いと思います。


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